後周からの禅譲により960年建国。首都はA(開封)。1127年に金に滅ぼされた

姓名 生年 没年 諡号 解説
趙広漢こうかん 子都しと       前漢の宣帝の頃の人
趙Bちょう         唐の人。広漢の子孫
趙Cてい         Bの子
趙敬けい         唐末の刺吏。Cの子
趙弘殷こういん     956   五代の人。敬の子。後蜀との戦いでは左目に流れ矢を受けながらも大勝した。廟号は宣祖
杜      961年6月 昭憲皇后 弘殷の妻。光済・匡胤・匡義と娘3人を産む
趙景清けいせい         弘殷の弟
趙光済こうせい         弘殷の長男。夭死した
趙匡胤きょういん   927年2/16夜 976年10/20午前2時頃 英武聖文神徳皇帝 北宋の建国者。弘殷の次男。廟号は太祖または芸祖。在位960年1月-976
王          匡胤の妻。饒の娘
王継勲けいくん     太平興国年間   王皇后の同母弟
宋          匡胤の妻。Lの娘。973年皇后となる
賀          匡胤の妻。徳昭・秦国公主・晋国公主を産む
       太祖の時   金城夫人。匡胤の妻。匡義に射殺された
趙匡乂きょうがい→匡義きょうぎ   939年10/7 997   北宋の2代皇帝。弘殷の3男。太祖即位に伴い「匡」を避けて光義と改名し、自身の即位後はQ(けい)と改名した。廟号は太宗、生前の尊号は至仁応神神功聖徳文武睿烈大明広孝皇帝。在位976年10/21-997
李    960 1004 明徳皇后 匡義の妻。処耘の次女
李継隆けいりゅう         明徳皇后の兄
李        元徳皇后 匡義の妻
尹    940前後? 976以前   匡義の妻
符          匡義の妻
趙廷美ていび 文化ぶんか   984   北宋の魏王。弘殷の4男。本名は光美。981年に追放された
趙徳隆とくりゅう         徳彜の兄
趙徳彜とくい 可久かきゅう       廷美の3男
趙徳文とくぶん 子矼しこう       廷美の8男
趙光賛こうさん     981以前?   弘殷の5男
趙徳秀とくしゅう         匡胤の長男。若死にした
趙徳林とくりん         匡胤の3男。若死にした
趙          秦国公主。匡胤の娘
趙          晋国公主。匡胤の娘
趙          魏国長公主。匡胤の娘
趙子Dしりん         匡胤の玄孫の孫
趙子覚しかく          匡胤の玄孫の孫
趙伯久はくきゅう→Eきょ 潤夫じゅんふ       匡胤の玄孫の曾孫
趙伯駒はくく         匡胤の玄孫の曾孫
趙伯Fはくしゅく 希遠きえん        伯駒の弟
趙与Gよじ 行之こうし・徳行とくこう       匡胤の玄孫の曾孫
趙伯振はくしん         匡胤の玄孫の玄孫
趙希Hきわん 君錫くんせき 匡胤の玄孫の玄孫の子
趙与Iよちゅう 徳淵とくえん       匡胤の玄孫の玄孫の孫
趙与Jよかん 威伯いはく       匡胤の玄孫の玄孫の孫
趙徳崇とくすう→元佐げんさ 惟吉いきつ       匡義の長男
趙元僖げんき         匡義の次男
趙徳昌とくしょう→恒こう   968 1022   北宋の3代皇帝。匡義の3男。廟号は真宗。在位997-1022
潘    968 989   恒の妻。美の娘
潘美び 仲詢ちゅうしゅん       北宋の鄭王
李          恒の妻。モ産む
1033 恒の妻
恒の妻
恒の妻
趙受益じゅえき→モオん/禎てい   1010 1063   北宋の4代皇帝。恒の6男。息子3人は全て早世。廟号は仁宗。在位1022-1063
曹    1000前後? 1067以後   モフ妻。彬の孫
郭      1033以後   モフ妻。崇の孫
張          モフ妻
張          モフ妻
趙徳厳とくげん→元汾(K)げんふん       恭靖王 北宋の商王。匡義の4男
趙徳和とくか→元傑げんけつ 明哲めいてつ       北宋の越王。匡義の5男
趙元Lげんあく 希道きどう       北宋の鎮王。匡義の6男
趙元Mげんしょう 令聞れいぶん       北宋の楚王。匡義の7男
趙元儼げんげん     1022以後   北宋の周王。匡義の8男
趙          鄭国公主。匡義の娘
王貽永いえい 季長きちょう       鄭国公主の夫。溥の孫
王溥ふ 斉物せいぶつ       祚の子
趙仲N(|/澗)ちゅうかん 存道そんどう       匡義の玄孫
趙仲Oちゅうせん 隠夫いんふ       匡義の玄孫
趙士Pしきゅう 仰夫ぎょうふ       匡義の玄孫の子
趙不羣ふぐん 介然かいぜん       匡義の玄孫の孫
趙不試ふし         匡義の玄孫の孫
趙善俊ぜんしゅん 俊臣しゅんしん       匡義の玄孫の曾孫
趙汝Qじょかつ         匡義の玄孫の玄孫
趙崇絢すうけん 履常りじょう       汝Qの子
趙汝Rじょすき 明翁めいおう 匡義の玄孫の玄孫
趙必Sひつしょう 玉淵ぎょくえん       匡義の玄孫の玄孫の孫
趙рアう   1209以前 1224以後   匡義の玄孫の玄孫の孫。寧宗の弟の養子
趙不棄ふき 徳夫とくふ       匡義の子孫
趙士嶐しりゅう 景瞻けいせん       匡義の子孫
趙善誉ぜんよ 静之せいし 匡義の子孫
趙允譲いんじょう   1010以後   安懿王 北宋の濮王。徳厳の子
趙曙しょ→宗実そうじつ   1032 1067   北宋の5代皇帝。允譲の13男。母は任氏。廟号は英宗。在位1063-1067
高      1093年9月 宣仁皇后 曙の妻。Tを産む
趙宗漢そうかん 献甫けんほ       北宋の景王。曙の弟
趙Tきょく   1048 1085   北宋の6代皇帝。曙の長男。廟号は神宗。在位1067-1085
向      1101   Tの妻
向敏仲びんちゅう 常之じょうし       向皇后の曽祖父
朱          Tの妻。煦と蔡王を産む
高          Tの妻
趙Uいん 仲格ちゅうかく       曙の4男
趙          魏国大長公主。曙の娘
王Vしん 晋卿しんけい       魏国大長公主の夫
趙          祁国長公主。曙の娘
張敦礼とんれい→訓礼くんれい         祁国長公主の夫
趙煦く   1076 1100   北宋の7代皇帝。Tの6男。廟号は哲宗。在位1085-1100
孟      1127以後   煦の妻
孟元げん 善長ぜんちょう       孟皇后の祖父
孟忠厚ちゅうこう 仁中じんちゅう       北宋の信安郡王。孟皇后の兄
劉          煦の妻
趙茂ぼう         北宋の越王。煦の長男
趙nひつ         北宋の呉王。Tの9男
趙Wご         北宋の燕王。Tの10男
趙佶きつ   1082 1135年4月   北宋の8代皇帝。Tの11男。母は陳皇后。廟号は徽宗。教主道君皇帝と自称し、元号により宣和(せんな)主人と呼ばれる。在位1100-1125
王          佶の妻。桓と崇国公主を産む
韋      1142以後   佶の妻。構を産む。80歳で没
劉          佶の妻
劉          佶の妻
鄭          佶の妻
李師師しし         佶の妻。位は明妃。北宋滅亡後は庶人となった
趙偲さい         北宋の越王。Tの12男
趙似じ         Tの13男
趙桓かん   1100 1156か1161   北宋の9代皇帝。佶の長男。廟号は欽宗。元号により靖康帝と呼ばれる。在位1125-1127
朱          桓の妻
趙ェしん         桓の太子
趙楷かい/煥かん     1127以後   北宋のX王。佶の3男
趙栩く         北宋の斉王。佶の7男
趙構こう 徳基とくき 1107 1187   康王。南宋の建国者。佶の9男。廟号は高宗。在位1127年5月-1162
紹興年間 構の妻
刑煥かん 文仲ぶんちゅう       刑皇后の父
呉    1115 1195以後   構の妻
潘      1148   構の妻。位は賢妃。Xを産む
趙Yふ     1160以前 元懿太子 構の子。若くして没
趙Zがく     1127以後   北宋の沂王。佶の15男
趙榛しん     1127以後   北宋の信王。佶の18男
趙杞き     1125以後   北宋の景王。佶の子

元号

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